あ、春

 駅から近いから、という理由で適当に決めてしまった安ホテルの一室は、どこかに隙間でもあるのか冷たい空気が途切れることなく流れ込んでくる。仕事で滞在するだけだと我慢して過ごしてきたが、最終日の今日は一段と冷え込んでいて今更ながら自分の判断を悔やんだ。ベッドに潜り込んで、大分時間が経っている。暦の上では春だというのに、どうしてこうも冷え込むのか。昼間は暖かかったり風が冷たかったりで安定もしない。風邪なんて長いこと引いていないがこうも気温が不安定だと、いよいよ体調を崩すのではないかといらぬ心配をしてしまう。
 到底眠れそうもないのに、一丁前に眠気だけは主張してくる自分の脳が恨めしい。何度も何度も寝返りを打つのには、正直飽々してきた。早く眠ってしまいたい。だけど足先が冷えてしまっているせいで、体は強張っている。備え付けのキルトはやたらと重いばっかりで、ちっとも体を暖めてはくれなかった。フロントに電話をしてブランケットを一枚貰おうかとも考えたが、仕事で疲れた体にはそれすら億劫でたまらない。暗い部屋の中でぼんやりと浮かぶ型の古いエアコンが目に入って、息を吐く。喉が乾燥するので暖房を付けたまま寝たくはない。例えタイマーを設定していようが、それでも朝には喉に違和感がある。ナックルが居たら、なんて我儘なやつだと笑ったかもしれない。
 ナイトテーブルに置いてある携帯を手に取り時間を確認する。液晶の光に、瞳の奥がちくちくと痛んだ。ため息を吐いてしまいたくなる程の時間ではなかったが、明日に備えて早く眠りたい。早く眠って早くに起きなければ、何もかもが到底間に合わない。就寝前にナックルから送られてきたメッセージをもう一度開いて、顔を顰める。『明日12時、お前んちの最寄り駅』と簡潔に綴られたメッセージ内容はあまりにも一方的で配慮がない。仕事で訪れているこの土地から自宅の最寄り駅まで遅れなく辿り着くにはどれだけの早起きをしければならないのか、ナックルはわかっているのだろうか。




 結局まともに眠りに就くことも出来ないまま、街すら眠る早朝にホテルを飛び出した。足りない睡眠は飛行船内の狭い座席で補うことになったが、ホテルのベッドよりも余程熟睡出来たというのもおかしな話だ。




 最寄り駅の改札を抜けると、ナックルは当たり前のようにそこに立っていた。オレが定刻通りにやってくることを欠片も疑っていない様子で、呑気に駅の人々を眺めている。きょろきょろと動くその瞳はやがてオレの姿を捉えた。ナックルはにかりと笑って右手を上げた。
 右肩に掛かったボストンバックの位置を正す。顔を合わせてまず一番に文句を言おうと、朝からずっと思っていた。けれど顔を見た瞬間に、何も律儀に時間を守らずともよかったことに気付いてしまった。時間を変えるように返信をするか、そうでなくても今日会うことを断る選択もあったのだ。仕事が終わってすぐのことだから、そうすることに何の不自然もない。
 だというのに、オレが約束通りにここへ到着することを疑わないナックルと同じように、オレも今日会うことを疑わずに不満を募らせた。文句を言うことがとんでもなく恥ずかしいことのように思えた。急にすわりが悪くなり、ナックルの混じりけのない笑顔に難しい顔を返してしまう。ナックルは不思議そうに首を傾げたが、どうせくだらないことを考えているとでも思ったのか特に触れることなく歩き出した。オレは有り難くその歩みに乗っかることにした。数歩歩いたところでナックルは思い出したように口を開いた。
「オレはもう昼飯を決めてる」
 ナックルは機嫌よく言うとオレの顔を覗き込んだ。オレの様子が変なことなんてどうでもいいようだ。そんなことよりも余程重要なことがあるというような浮かれた顔つきだ。オレはナックルを一瞥して少しため息を吐いた。いつまでも羞恥に苛まれるのは馬鹿らしいことのように思える。
「当ててやろうか」
 やかましく駄々をこねる子供に対するような調子で声を掛ける。
「出来るもんなら」
 自信満々のナックルだが、こいつがこちらに来て入る店は大体決まっている。夫婦が営んでいる中華料理屋か、カラオケ店の横にある定食屋だ。余り栄えていない片田舎の駅前では、当たりの店はそれくらいしかない。それか、どこにでもあるファストフードのチェーン店。たまに食べたくなるのだと言い、そういう時のナックルは妙に浮ついている。ふと、笑いたくなった。
「どうせバーガーが食べたいんだろう」
 しばらく無言で歩き続ける。当たったかな、とナックルの顔をこっそり覗き込むと、バツの悪そうな、照れ臭そうな、なんとも形容しがたい顔をしていた。その後、何かを隠すように「たまに食いたくなんだよな」と小さく口にしたので、耐え切れず笑ってしまった。
 油っこくて味のしょっぱいバーガーと付け合せのポテトを腹に入れて、すぐに近くのスーパーへ足を運んだ。長いこと仕事で家を空けていたので、色々と買い出しが必要だった。ナックルにカートを押してもらい、目ぼしい商品を次々とカゴに入れていく。あれがない、これもない、部屋の掃除もしなくちゃいけないと相談しながら店内を歩きまわっていると、カゴの中は数々の食材と日用品であっという間にいっぱいになった。
 重たいカゴを二つもレジカウンターに乗っけると店員はあからさまに面倒くさそうな顔をしたが、すぐに諦めて商品のバーコードを読み取り始めた。淀みなく一定のリズムで鳴り響く読み取り音をBGMに、次々と値段の繰り上がっていくモニターを見つめる。財布の中には充分金が入っているが、カゴの中の商品があまりにも多いので少し不安だった。やがてモニターの数字はぴったりと止まって、店員が感情もなく値段を読み上げる。慌てて何枚かの札をトレーに置いた。店員はお釣りを手渡すと、清々したような面持ちですぐに次の客に向き直った。
 歩く度にレジ袋が乾いた音を上げる。一定のリズムで続くそれに、オレは意識して耳を傾けていた。不摂生の手助けをするコンビニの軽いレジ袋の音とは違って、ずっしり重い。空を見上げて、すぐに足元に目線を落とした。風は冷たいが、日差しは暖かく柔らかい。ちぐはぐしている。隣には同じようにレジ袋を手に提げたナックルが歩いている。変に穏やかだった。重たいレジ袋の乾いた音が聞こえる。奇妙な穏やかさは、それを滅多に耳にすることの出来ない生活の音だと思わせた。
「あ、春」
 隣の男が呟いた。それは恐らく独り言だ。オレが言葉を返さずとも意に介さず歩き続けている。ナックルの独り言も意識の外に行く頃、春だな、と言葉が聞こえてきた。どうやら気が変わって、独り言にするつもりがなくなったらしい。確かに季節は春だ。そうだな、と口を開く。
「春って、向こうからやってくるってよりはこっちから見つけてやるって感じだよな。見つけてやって、ようやく腑に落ちる」
「なんだよ、それ」
 少し笑うと、バカにされたと感じたのだろうか、ナックルが口を尖らせた。
「他の季節よりささやかだろ。強烈さがねェ」
 一台の白い車が横を通り過ぎていった。相当乗り回しているのか、唸るようなエンジン音はやけに不安定で、少し気を取られた。それをナックルがどう受け取ったのか、わざとらしいため息が聞こえる。どうやら、この話にはまったく興味がないものと受け取ったらしい。
「お前にも春だと身に沁みるような瞬間、ねェのかね」
 話はこれで完結している、というような響きを持たせてナックルが言った。オレの返事は必要としていないようだ。
 果たしてそんな瞬間、今までにあっただろうか。春と言えば、桜だ。春と言えば、別れと出会いが一遍に押し寄せてくる。春と言えば、採れたての美味しいフキノトウが食べられる。春と言えば、一面の菜の花。あとはなんだろうか。恐らくこういうことが言いたいのではないのだと知りながら、取り留めもなく考えた。春とはなんだろう。ナックルの感じるものはもっと不確かで、形なんてないように思う。そもそも、そういうものが春なのか。あまりにも漠然としている。
 どこかの住宅から、掃除機の運転音が微かに聞こえてくる。ナックルは、先程の会話なんて忘れてしまったかのようにすっかり前を向いて歩いていた。




 気を抜けばあっという間に夜になってしまうので、急いで掃除に取り掛かった。家を空ける前に掃除をしていようが、埃はうっすらと積もっている。誰も生活していないのにどうしてなのだろうと不思議に思っていたのは最初だけだ。今はもうそういうものなのだと諦めてしまったし、たぶん考えるだけ無駄だ。
 あれには触るな、勝手に物を動かすなとあれこれ注文を付けながら掃除の指示をするとナックルはうんざりとした顔をしながらも従ったが、しっかりと文句を言うことは忘れなかった。仮にも掃除を手伝ってもらっている身ではあるが、これだけは譲れない。どうしても我慢ならないのなら掃除が終わったタイミングで家に来ることも可能だった訳だから、なんと言おうがオレのやり方には従ってもらう。ナックルにとっては物が散らかっているように見えても、これがオレの正解なのだ。


 すべての掃除が終わった後、面倒になってしまった夕飯の準備を押し付けあっていたはずなのに、結局二人で作る流れになってしまった。男二人で狭いキッチンに入って細々と作業する姿は、傍目から見れば相当滑稽に映るだろう。こんなことなら最初からデリバリーに頼るつもりで買い物をすればよかったと後悔するが、もう遅い。お互いの作業に文句を入れ合いながら調理を進める。ナックルが色んな種類の調味料を、組み合わせも考えずに料理に入れようとした時は流石に本気で怒った。





 オレが目を離した隙にナックルがありとあらゆる調味料を料理に入れたので、食後の片付けはすべて押し付けることにした。ナックルも流石に反省していたのか、文句の一つも言わずに引き受けてくれた。ソファに体を沈めてテレビを眺める。一人の芸能人の半生を振り返り、周囲が褒めそやしている様は見ていてちっとも面白くなくて、すぐにチャンネルを替えることになった。いくつかチャンネルを渡り歩いて、最終的に一昔前に流行った映画を放映している番組に落ち着いた。公開当時は相当世間を沸かせていた映画だが、オレはどうにも見る気になれなかった。他に見る番組もなく、今漸くこの映画を見ているが当時のオレの判断は正解だったように思う。
「お、オレその映画好きなんだよな」
 片付けを終えて戻ってきたナックルは、オレの隣に腰掛けた。もう何回も見ていて、先の展開も全部わかるのだと語るナックルは楽しげだ。素直にこの映画を見るのは初めてだということを伝えると、ナックルはテレビを指差して熱心に登場人物の説明をしてくれた。ネタバレをしないように心掛けているようだが、所々核心に迫った話をしてしまっている。さして興味もない映画だから痛くも痒くもないが、オレが進んで見ようとしている映画も同じようにされてはたまらないと思い一応指摘をしておく。対して悪びれてもいないような声で小さく詫びたナックルは、それきり黙って映画を見続けた。
 見始めた時間が中途半端だったせいで、そう時間もかからず物語も終盤に入った。確かによく出来た映画だとは思うがオレの好みではなかった。


 映画が終わり、ナックルがぐーっと伸びをした。それから、映画のあのシーンが好きだとか、どの展開には驚かされるとか上機嫌に感想を述べ始めた。そうだろうな、ナックルはそこが好きだろうな、とぼんやり考えながら身振り手振りで、忙しそうに動く手を見つめる。何とはなしにその手を掴むと、急に部屋が静かになった。指を絡めるとぎゅっと握り返される。それから、自分の取った行動をすぐに後悔した。
「お風呂、先にどうぞ」
 なるべく素っ気なく言って手を離したのに、すぐにその手は戻ってきた。ナックルは、愉快そうに笑っている。
「キスしちまおうかな」
 手の甲を親指で撫でられる。ナックルの瞳は優しい色をしているのに、表情だけは悪戯っ子のようで、思わず笑ってしまった。
「後でな」
 この言葉にはなんの意味もないな、と思いながらも念のため口にしたが、案の定ナックルの手が伸びてきて止める間もなく唇を押し付けられた。よせよ、と肩で手を押すとナックルはあっさりと離れていった。


 風呂から上がってリビングに行くと、ナックルはソファで雑誌を捲っていた。こいつの興味を引くような雑誌を置いていただろうかと手元を覗くと、それは随分と前にナックルがオレの家に置き忘れて行ったものだった。なるほど、と納得する。
「先にベッド入るぞ」
 テーブルに置いてある携帯を手に取り声を掛けると、ナックルがこちらを仰ぎ見た。おう、と小さく返事があって、ナックルは顔を戻して雑誌を読み耽る。寝室に入ると、冷たい空気が肌に触れた。今夜も冷え込んでいる。


 ベッドヘッドに背を預け、ランプの明かりを頼りに本を読みながら、そろそろかな、と当たりをつける。そうすると、示し合わせたかのように寝室のドアが開いた。久しぶりに会った日の夜は、初めて体を重ね合わせたときのように緊張する。ナックルの気配がベッドに近付くにつれて、本の内容が頭に入り込まなくなる。息が止まりそうだ。それでもページを捲って文字を追い続けた。マットレスが揺れる。
「シュート」
 すぐ横に聞こえてきた声に、うん、と言葉だけを返す。髪の毛をゆっくりと手で梳かれて、瞼が震えてしまった。なんだか心がくすぐったい。うっかりしたら、笑い出してしまいそうだ。ついに文字を追うこともやめてページの端っこを見つめた時、ナックルは本をそっと取り上げた。奪い取られた本を目で追い、それから観念したふりをしてナックルを見る。瞳の虹彩に、仄かな情欲の熱を感じる。
「手、冷てぇな」
 オレの手を握って、ナックルが言った。段々と顔が近づいてくる。ナックルの手は暖かくて、冷たいオレの手に熱を与えてくれる。心地良い。あと少しで唇が触れる。オレの心臓の鼓動が、ナックルにも聞こえてしまっているだろうか。「本、」唇が触れる寸前、口を開くとナックルの動きはピタリと止まった。
「本、まだ途中なんだが」
 握られた手に、僅かに力を込める。本当はもう本の続きなんて気になってない。みっともなく緊張していることを悟られたくなくて、体裁を取り繕っているだけだ。心臓の音がうるさい。吐息を近くに感じる。下唇を、ぎゅっと噛む。直ぐ側で小さく笑った気配がした。
「後でな」

 ナックルはそう言って、優しく唇を重ね合わせた。唇と唇がくっついただけの子供染みたキスだった。あっという間に体の力が抜けていくのがわかる。オレの緊張を解きほぐすのには、完璧なキスだった。ナックルは得意げに笑っている。ここで微笑みを返せるほど、オレは出来た人間じゃない。繋いだままの右手を離して、ナックルの腕に触れた。次のキスはすぐに訪れた。
 ナックルはオレのことをよく知っている。だけどオレも、ナックルのことは大体知っているんだ。


 重たい眠気が段々と浮いていくように意識が目覚める。瞼を閉じていてもわかる陽の光の眩しさに眼の奥が痛んだ。首の後ろにじっとりと汗を掻いていることに気付いて、知らぬうちに「暑い」と呟いてしまった。ベッドから抜け出すと、汗を掻いた体に心地よい空気が触れる。下着しか身に着けていない自分の格好を思い出したが、かと言って上着を羽織る気にもなれず寝室を出た。暑いのもそうだし、とにかく喉が乾いていた。ナックルは未だ寝こけている。

 コップに波々と注いだ水を一気に飲んで、室内を眺める。ソファには昨日ナックルが読んでいた雑誌が無造作に置かれている。持って帰らせようとは思っているが、どうせまた忘れるだろう。前回みたいに。コップ半分程に水を注ぐ。今日は何をして過ごそうか。とにかく今は、喉を潤した後もう一眠りしたい。長く仕事をした後だ。出来れば家でのんびり過ごしたいと思うし、ナックルもそれを汲んでくれるだろう。

 水を一口含んでゆっくりと飲み込む。大げさに喉が鳴って、訳もなく慌ててしまった。念のため寝室を見遣って、ナックルが顔を覗かせていないことを確認する。またもう一口飲み込んで、左肩を擦る。昨日までの冷え込みと比べれば、今日は朝から春らしく暖かい。それでも汗を掻いていた体を簡単に冷やしてしまう程度には肌寒いし、そもそも下着一枚しか身に着けていない。それをよしとしてキッチンまで出てきたのは自分なのに、急に恥ずかしくなってしまって急いで残りの水を飲み干した。

 寝室に入ると、意外と静かなナックルの寝息が聞こえる。肩までしっかりキルトを被っているが、暑くないんだろうか。なるべく音を立てないようにそっとベッドまで近付いた。ナックルの隣に潜り込んで、その温もりに長く息をつく。何だか今日は今までになく良い休日になりそうな気がした。ナックルの方に、少しだけ体を寄せる。眩しいはずの真っ白い朝日に、優しさを感じる。柔らかい微睡みに、ゆっくりと瞼を閉じた。つい先日、安いホテルで一人寒さに耐えたあの日が遠い出来事のようだ。身を包む暖かさに段々と意識が沈んでいく。



 その時、はたと心に沁み入った。

「あ、春」







春夏秋冬ナッシュ企画で、春の話を書きました。