幸せもの

 酒と煙草が混じった臭いが店中に広がっていて、逃げ場はどこにもなかった。今日なんかは、取り替えたばかりなのだろう、真新しい油の鼻に纏わる臭いが加算されている。カウンター席の隣に座るナックルはそんな悪臭にも慣れきっている様子で、お通しを箸でつついている。かくいうオレも、この臭いにはもう慣れきってしまった。この店はナックルの行きつけだ。
 厨房から上がる煙が換気扇に吸い込まれ切らずに天井にもうもうと広がっている。旨い酒と美味い料理があるのなら、ある程度の悪条件も受け入れようと言うのがナックルとオレの共通の見解だ。ただナックルとオレでは『ある程度』の幅とその拘りの違いは大いにあるが。
「今日は揚げ物がオススメだな」
 ナックルが鼻の頭に人差し指を擦りつけながら言った。真新しい油の臭いは強烈で独特だ。ラミネートされてつやつやと光るメニュー表を手に取り眺める。鶏のから揚げ、白身フライ、串かつ、メンチカツ、天ぷらの盛り合わせ。山菜の天ぷら。
「山菜の天ぷら」
「食べんの?」
 頷くと、ナックルはオレの手からメニューを取り、眺めた。真剣な眼差しで暫くメニューを睨みつけ、店主に注文を告げる。
鶏のから揚げ、串かつ2つ、山菜の天ぷら、生中2つ、以上で。
「今日はビールが進むぜ」
 ナックルは残り僅かなビールを飲み干すと、既に空になっていたオレのジョッキとまとめて隅に寄せた。
「揚げ物ばっかりだと胃がもたれる」
「たまにはいいだろ」
「よくない」
 ナックルが眉間に皺を寄せ、口を開いた瞬間、後ろにあるテーブル席からわあっと笑い声が上がった。朗々とした笑い声は店内を瞬く間に駆け抜けていく。ナックルと揃ってその席に目を向ける頃には、店内にはいつもの騒がしさが戻っていた。目線を戻す途中でナックルと目が合った。逸らせないでいると、ナックルが先にその結び目を解いた。
「お前最後に大笑いしたのいつ?」
 ナックルは手持ち無沙汰な様子でカウンターの角を撫でた。その指を目で追う。
「さあな」
「可哀想なヤツ」
「別にそれでも構わないさ」
 頬杖をついてそう言ってから、間を置いてナックルを見ると、またその瞳とかち合った。暫く見つめ合うと、ナックルが耐え切れないと言った様子で吹き出した。オレもとうとう耐えることが出来なくなり、肩を震わせ、次第に大きな笑い声に変わっていく。
 笑い声は店内を駆け抜け、人々の視線を独り占めにする。これは世界共通で不変のルールだとオレは知ってるはずなのに、その笑いの波は暫く収まらなかった。









エンドロール

 休日に映画を見ることしかしないような男だった。映画が好きというよりも映画を見た後の余韻が好きなようで、鑑賞する映画といえばメッセージ性が強すぎて何がなんだかわからないインディペンデント映画がもっぱらであった。シュートがきちんと映画の内容を理解しているのかは甚だ疑問だが。
 エンドロールが流れている間は音を立ててはいけない。これは暗黙のルールだった。このルールにはオレも大賛成だ。映画を見終わってすぐに、もっともらしい顔で頷いてコーヒーを啜る様は別として、エンドロールを見つめるシュートの瞳は好きだった。シュートは呆然としてるような表情でぼんやりと画面を見つめる。
 オレは毎回、シュートの投げ出された右手を握ってみたくなる衝動を抑えるのに苦労した。シュートの瞳は流れる文字を映して煌めいている。オレは左手をぐーぱーして、結局、自らの右手と組み合わせる。毎回のことだ。

「コーヒーのおかわりは?」
「うん、頼むよ」
 シュートはDVDディスクをケースに入れて、パチンと音を立てた。マグを手に取り底を見ると茶色いコーヒーが丸く形を作っている。オレは砂糖とミルクのありありでシュートはブラック。ブラックを飲んでるやつはみんな、ただ大人ぶりたいだけなのさ。

 マグを2つ持ってテーブルに戻ると、シュートはソファに座って窓の外を眺めていた。「ほらよ」シュートの前にマグを置くと小さく礼を述べた。TVの画面は真っ暗だ。リビングと玄関を繋ぐドアは開け放たれ、玄関へと続く短い廊下は薄暗い。外では自転車のベルが鳴る音と、子どもたちの笑い声が住宅街を彩っている。休日の、のびやかな空気。映画の余韻の延長線上にあったとしても気分がよかった。もうエンドロールは終わった。暗黙のルールを守るときも終わったのだ。シュートの右手は暗黙のルールの中にあるように投げ出されている。急に右手を握ったら、こいつ、どんな顔をするだろう。









愛にまつわるエトセトラ

 セックスを待つ時間をスマートかつ格好良く決められる男が居たら拝んでみたいものだ。いいや、やっぱり良い。気が合いそうにない。きっと見ているだけでイライラする腑抜けた男に決まってる。それにしたってそもそもがだ。緩く勃起しているこの状況じゃ何をしたって格好が付かない。
 男同士のセックスというのは、事前の準備が必要だ。何せ挿れる場所が、挿れる場所なので。触り合って満足出来ればそれに越したことはない。ようするに今日は、それに越せなかった。お互い。シュートが北東の大陸まで3ヶ月も仕事に行っていたのだから、部屋に帰ってきてからずっと、ヤりたい盛りのガキみたいにソワソワしていた。
 飯を食べるオレを見つめるシュートの顔が一番笑えたけど、オレもきっと人のことは言えなかった。


 僅かに漏れるシャワーの音だけが部屋を満たしていた。耳を澄ましてしまっていることには気付いてる。
やがてシャワーのコックを締める音が聞こえて、オレはとうとう顔とか、気持ちとか、ナニとかを引き締めなければいけなくなった。ベッドに漫画の一冊でも置いてあれば、その気のないフリをするのに一役買うというのに、今日に限っては綺麗にしまわれている。
 暫くして部屋に入ってきたシュートの髪の毛先はまだ湿り気を帯びているようだった。ベッドに腰掛けるオレを見たシュートの口が"お"の形になって、しかし音になることはなくそのまま口ごもる。
 大方、おまたせ、と言おうとしてその言葉の恥ずかしさに尻込みしたのだろう。コイツは可愛らしいことなんて一つも言わない。
「愛っていうのは偉大だぜ、お前」
「何気持ち悪いこと言ってるんだよ…」
 生意気な口を閉じてやろうと、手を引いて唇を寄せるとシュートは可笑しそうに笑いながら瞼を閉じた。
穏やかなキスが出来るんだから、愛っていうのは偉大だぜ。









愛する人

 ベランダからたくさんの家を見ると、オレはたまにゾッとした気持ちになる。数えきれないほどの家があるだけ、交わることのない人生が無数に息づいている。バルコニーに干されるバスタオルや赤い光沢の自転車。音の無い無機質な実感は、より明確に脳裏に刻まれる。
 対して、ナックルの住むアパートの佇まいを見るとホッとする。まるでそこだけが現実にあるもののようにくっきりと浮き上がる。それ以外の建造物は意識的に排除する。玄関の前に立ったときの音。合鍵で錠を開けるときの息の止まる緊張。ドアを開けるとナックルの匂いがして、下を向けば使い込まれた靴が持ち主を今か今かと待っている。オレはナックルの部屋の家具についた傷を数えるのが好きだった。新しい傷が付いているのを見つけると安心した。時間の経過と色濃く漂う生活の匂いに触れたとき、オレは大衆から切り離される。ナックルの家の、ナックルの人生。

 電車の座席の下には、様々な靴が並んでいてまるで靴屋のショーケースを眺めているようだった。翌日の休みが久しぶりに重なったので、終電ギリギリの電車に揺られてナックルの家の最寄り駅まで向かっている。ナックルに会うのも、家に行くのも久しぶりだ。電車の外に立ち並ぶ外灯が暗闇の中で瞬く間に流れていく。オレは最寄り駅を告げるアナウンスを待ち続けた。

 人の流れに乗って改札を出て、東口まで向かう。ナックルの家は、オレの家とは違って駅から近い。それなのに駅の喧騒とはかけ離れた静かな場所にそのアパートは建っている。途中のコンビニでミネラルウォーターを2本買い、また歩き続けた。耳に流れた電車の音に、携帯の液晶で時間を確認する。きっと最終の電車だろう。皆自分の家に帰って行っている。ベランダから見えたあの家々にもきっと誰かが帰って行き、その帰りを待っている人がいる。暗闇の中で、オレは密やかに息を呑んだ。



 ナックルの住むアパートが段々と暗闇の中から浮き上がっていく。その建造物がくっきりと浮き上がる頃、オレはどうしようもなく安堵した。急いていた足も落ち着きを取り戻し、エントランスを抜けて階段を登りナックルの部屋の玄関の前までたどり着く。ポケットから取り出した合鍵のキーホルダーが音を鳴らす。生活の音が扉の向こうから微かに聴こえてくる。オレは息を潜めて錠を開きドアノブを掴んだ。細い明かりが足元を切り取った。ドアを開けきると部屋の明かりが体中を照らしだす。ナックルの匂いと、見慣れた靴。靴棚の一番下の棚に溜まった埃。
「おう、早かったな」
リビングから顔を覗かせたナックルの目尻の笑い皺。

時間の経過、ナックルの人生。















別に幸せものなナッシュをコンセプトに書いてた訳じゃないですけど、エンドロールは「彼ら」よりのお話ですね
どっちにしろナッシュの二人は幸せものなんですけどね。