呪縛












あのカフェの名前、なんて言ったかしら、ほら、あそこの大通りにお喋りな店主の居る古本屋さんがあるでしょう、その横の小道を入ってね、ずーっと進んでいくとね、あるのよ、ええ、ちょっと萎びた建物なんだけど、静かで雰囲気も良くってね、それでね、そこのカフェのアップルパイがとっても美味しかったのよねぇ、通っちゃおうかしら

 ナックルはそのカフェを知っていた。時間もそれほどなかったので、適当に目に入った店で昼食を済ませようと思ったのが、間違いだったのか、正解だったのかわからない。

 確かにそこのカフェのアップルパイは絶品で、コーヒーも美味しく、何より店主がまるで置物のように物静かだった。客もそれに倣ったかのように黙々としているので、シュートを連れて行くには打ってつけだったし、何度か一緒にそこのカフェでコーヒーを飲み、アップルパイに舌鼓を打った。ナックルと連れたってその大通りを通るときは、カフェへと繋がる小道をほとんど無意識に見つめていたほどだから、シュートもその店を気に入っていたに違いない。ナックルはそこのカフェで声を潜めてとんとんと話をして、時々吐息を漏らすようにシュートと笑い合うのが好きだった。ただもうシュートを連れては行けないなとナックルは思った。件のカフェの話をしていた女の声は、ガヤガヤと人の声のさざめき立つ店内で、そのうえ三席離れても有り余るほどに目立っていた。シュートが底の見えないコーヒーばかりを見つめて居心地が悪そうに身を縮める姿が目の前に浮かぶようだ。瞬きをすれば消えていく。まったく面倒くさいことになってしまった。



 それからというものナックルは、街に出る度にシュートが好みそうな古臭くて茶色っぽい、静かなカフェを探して回った。あるところではコーヒーがまずくて、あるところでは古臭さを装ったピカピカの新品だらけの店内で、あるところでは常連ばかりの賑やかな店だった。どれもこれもシュートが一歩引いてしまいそうな店ばかりだ。ナックルは入店したばかりのカフェのカウンター席で、イスの脚を踵で蹴った。何をやっているのだろうという気持ちはあった。だが、シュートが底の見えないコーヒーばかりを見つめて、居心地が悪そうにする姿を想像するとどうにもたまらない気持ちになってしまうのも事実だったし、一緒に街を歩いている最中、少女の華やかな笑い声にすら気を張り詰めてしまう自分に、気の抜ける場所を探しておきたいとナックルが思ってしまうのも、仕方のないことだった。
 ナックルはカウンターテーブルのニスが剥げた部分を指でなぞって、心底惜しいと落胆した。今居る店も、店主が人好きのする爺さんで客に気さくに話しかけてしまうのでダメだった。もしシュートが話しかけられたら、きっと目の前でガラスが割れてしまったような表情をするだろう。出来る事なら、シュートを脅かすものすべてを取り除いてやりたかった。愚かだと笑われても、ナックルはそれを自覚しているので、ほっといて欲しいと思うのが関の山だ。コーヒーを飲み干し、勘定を済ませて礼を言うと店主は黄ばんだ歯を剥き出しにしてニッカリと笑った。人懐っこいその笑顔に、ナックルは店を後にしてから、クソゥ、と小さくつぶやき小石を蹴った。



 ナックルが最後にカフェを探し歩いてから2週間が経っていた。ホテルに滞在し仕事に奔走していたせいでシュートとも連絡を取り合わないまま、もちろん顔も合わせていない。そこで、2週間くらい会わないのも連絡を取らないのも普通だと気が付いて、思わず爪を噛みたくなるような後ろめたい気持ちになる。ポケットの中の携帯が音をたてたのに救われたような気持ちになり、それがまたナックルの後ろめたさをくすぐった。一体何に対して後ろめたいと感じるのか、ナックルには何もわからなかった。
 携帯を取り出して画面を確認すると、仕事仲間の一人から着信が入っている。仕事終わりの打ち上げだなんだと、何かにつけて飲みたがる酒好きのやつがいるからその誘いだろうと当たりをつけてナックルが電話に出てみると案の定それだった。
 今回の仕事はナックルを含めた4名で取り組んでいた。ほとんどが豪放磊落な性格の持ち主で正にシュートとは正反対だ。ナックルが気を張り詰める必要なんて一時もなかった。もちろん、仕事のそれとは別として。こっちのほうが楽しいし気が楽だと思いながらも、仕事合間に談笑する最中、頭の隅に浮かぶのはあのカフェで内緒の話をするように顔を近づけ声を潜めて話合うシュートのその眉間のシワであったり、また移動の最中に思い浮かぶのは、カフェに向かう道中、顎を引いて上目遣いで辺りを伺うシュートの姿を視線の隅に見止めた自分の落ち着かない気持ちであったりするのにナックルはうんざりとした。シュートが傍にいる以上にイライラとする。そもそも、シュートを引き合いに出すというのが間違っているのだ。通話を終えた携帯をポケットに戻し、ナックルは口の開いたボストンバッグを覗きこんだ。


 翌朝、ナックルは適当な言い訳をして仲間に別れを告げ、朝一番の電車に乗った。がらんどうな車内の一番端の席に腰を落ち着けて壁にもたれ掛かる。体内にはまだアルコールが残っていた。電車の心地良い揺れとレールの繋ぎ目を跨ぐ規則正しいBGMはすぐにナックルを浅い眠りの世界に引き込んだ。


 ナックルは浅い眠りの中で夢を見た。内容はすぐに忘れてしまったが、目が覚めて最初に頭に浮かんだ、最悪、という言葉とどこか覚えのあるその感覚だけはいつまでも臓腑に染み付いて離れなかった。




 新しく取り掛かっている仕事が順調に進んでいることを差し引いても、すこぶる気分がよかった。ナックルは先週になってようやくシュートが好みそうなカフェを見つけたのだ。そのカフェの店主は置物だなんてものじゃなく、注文を受けて品物を客のテーブルに置くとさっさと店の奥に引っ込んでしまうような愛想のない人物で、その割コーヒーはコク深く芳醇な味わいで、きっと通をも唸らせる一品なのだろう。ナックルは正直な所、コーヒーの良し悪しなどをわかってはいないが、それでも純粋にコーヒーの旨さに感動したし、客は拘りを持ってそうなすまし顔の男ばかりだったので、そのカフェのコーヒーが素晴らしいものであると確信するには安易だった。それにそのカフェの古色蒼然とした佇まいときたら、シュートが気に入るに違いなかった。ナックルはウキウキとしているのを悟られないように一度慎重に咳払いをしてからシュートに電話を掛けた。


 たどり着いたカフェを眩しそうに見上げるシュートを見て、ナックルは、おや、と思った。腹の辺りがチリチリとし始めたので、ナックルは手のひらで払うようにしてからカフェのドアを開いた。チリンチリンと来店を知らせる鈴が鳴ると、店主が店の奥から顔を覗かせる。店主はシュートとナックルを見比べてから独り言のように「珍しいな」とつぶやいた。それから「リーゼントの兄ちゃん、注文は」とナックルに尋ねたので「エスプレッソ一つ」と答えると店主はさっさと店の奥に引っ込んだ。シュートは勝手知ったるように窓際にある日焼けた席に着くと、覚悟を決めたような面持ちでナックルを待っていた。ナックルは向かいの席に座り、眩しく差し込む太陽の光に目を細めた。臓腑がゾワゾワとして落ち着かない。腹に穴が空いて、そこにすーすーと風が吹き込んでいるように心もとなかった。程なくしてきっちりと二人分のコーヒーと一切れのチーズケーキが席に運ばれた。ナックルはコーヒーを口元に運び、視界を不鮮明にする白い湯気を吐息で吹き払った。
「ここ良く来るのか」
「まあ、うん」
シュートはティースプーンの位置を気にするふりをしてナックルと目を合わせようとはしなかった。落ち着かないままに急いで口にしたコーヒーがナックルの舌を痺れさせた。シュートはもうこのカフェに来ることはないのだろう。また似たようなカフェを見つけて一息吐くのか、それとももうこれが最後だと諦めるのかは、ナックルには知るよしもなかったが、きっとこれが最後だ。シュートにはシュートの庭がある。それをナックルは知らなかっただけで、シュートも教えなかっただけだ。それだけで、自分は一体どうしてここまで動揺しているのだろう。舌を痺れさせるコーヒーはまったく味がしなかった。いつだってそうだったのだ。ナックルは鍵を持ちあわせてはいない。そのことに気付くのはいつもシュートの冷たい檻に触れたときだった。まったく馬鹿げていた。独りよがりだったと自虐するのも馬鹿馬鹿しかった。お前のことなどどうでもいいと突き放すことが出来たら、どんなに楽だろう。でもそれは檻の冷たさを知れば知るほどに出来なくなっていった。ナックルは、くそぅ、と胸中で呟いた。臓腑はいつまでもゾワゾワと落ち着きなく、腹の風穴には途切れることなくスースーと風が吹き抜けている。あの日、電車で染み付いたあの感覚は、冷たい檻に触れたときのそれとそっくりだった。最悪の一言に尽きる。ナックルはテーブルの下に隠れている膝を蹴りあげた。「なんだよ」不機嫌そうにナックルを見つめる眼差しに、これでいい、と納得させるようにシュートの足を踏みつける。シュートは迷惑そうな顔で足の位置をずらして「何かあるなら言えよ」と声を落として体を近づけた。少なくともナックルは、その冷たい檻に触れられる。今はまだ、これでいい。











蟻編前のお話。過保護ナックルくんと檻籠りシュート。